館山昌平 - 履歴 | Wikipediaで「館山昌平」の情報を見る
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館山 昌平
東京ヤクルトスワローズ  No.25
基本情報
国籍 日本
出身地 神奈川県厚木市
生年月日 1981年3月17日(27歳)
身長
体重
181cm
83kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 2002年 ドラフト3巡目
初出場 2003年7月20日
年俸 1億円(2009年)←←6200万[1]
経歴
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

館山 昌平(たてやま しょうへい、1981年3月17日- )は、プロ野球東京ヤクルトスワローズに所属する投手である。

目次

学生時代まではオーバーハンドで投げていたが、プロ入り後にサイドスロースリークォーターと言われることもある)に転向。最速152km/hの速球を投げ込む本格派投手で、主にスライダーシュートなどで横へ揺さぶり、フォークで相手打者を抑える投球が目立つ。コントロールもよく先発、中継ぎの両方の役割を担うことができる器用さをもつ好投手。

初勝利を13度目の先発でようやく達成している他、抑え就任時に制球難を見せるなど、好投しても勝負所でやや勝ち運に疎い所がある。

打撃技術はあまりないが、2005年10月11日対横浜戦では、門倉健(現巨人)からセンターへの2点タイムリーヒットを含む2安打を放っている。

いわゆる松坂世代で、松坂と同じ神奈川県屈指の好投手であり、横浜高松坂大輔(現レッドソックス)と度々投げあいを演じた。

高校時代は日大藤沢高に在学。1997年秋の神奈川県大会決勝では0-9で横浜高校に敗退。関東大会決勝で再び横浜高校の松坂と対戦し、延長10回まで投げ抜いて、0-1で敗戦投手となった。1998年春のセンバツでベスト4。準決勝で久保康友(現ロッテ)のいた関大一高と対戦し、4点ビハインドの6回から、3回無失点の好リリーフを見せるも、3-5で敗れる。同年春の関東大会決勝で三度横浜高の松坂と投げ合い、延長13回、150球超を投げながらも、0-1で敗戦投手となった。夏の県大会はベスト4どまりで、夏の甲子園出場はついに叶わなかった。

その後日大に進学し、エースとして活躍を見せる。同期に村田修一(現横浜)、堤内健(元横浜)、大野隆治(元ソフトバンク)がいる。2001年の3年時には、東都六大学の春季大会の優勝に貢献する、大車輪の登板ぶりを見せた。日本代表にも選ばれ、ワールドカップに出場。

大学最後の春は右肩の故障で棒にふってしまったものの、2002年ドラフト3巡目でヤクルトに指名され、入団。

2003年

7月に初めて一軍に昇格すると、7月20日に7点差負けの9回に初登板。1点を失うほろ苦いデビューだったものの、かねてから先発陣が手薄だった事もあり、8月から先発ローテーションに定着。以降9度先発して0勝3敗と、そこそこの好投を続けたもののマメをつぶすアクシデントなどもあって勝ち星に恵まれなかった。

2004年

先発ローテーションの一員として期待されたが、キャンプ中に右肘の靭帯を断裂する大怪我を負ってしまった。3月には手術を受け、以降一年をリハビリに費やし、二軍のマウンドにも立てずに終わった。

2005年

4月頭に一軍復帰すると、4月27日に念願のプロ初勝利を挙げる。7月30日甲子園での阪神タイガース戦で完封勝利(被安打4・無四球)。一年間ローテーションを守り、10勝を挙げ、ヤクルトの先発三本柱に成長する。しかし11月に再度右肘を故障し、手術を受ける事になってしまう。

2006年

前年オフに手術したリハビリの影響から開幕に間に合わず、5月に復帰後に5度先発するものの、計23失点の1勝3敗と結果を残す事が出来なかった。しかし中継ぎ降格後は徐々に安定感を取り戻し、6月27日にはプロ入り初セーブを記録。9月には抑えも任せられ、結局自己最多の44試合に登板し、2勝5敗5Sとまずまずの結果を残した。

2007年

プロ入り後初めて順調にオフを過ごし、中継ぎとして開幕一軍を迎えた。好投が評価される形で、5月からは先発、7月末から抑えと度々配置転換が行われた。しかし先発で好投しても援護に恵まれず、また抑え転向後も緊張からか救援失敗も多く、最終的に防御率3.12でありながら12敗(3勝5S)を喫してしまった。ただこの年初めて一年間一度も二軍に落ちる事なく登板しており、戦力としての信頼度は高まっている。この年は好投しているのに援護に恵まれず敗戦投手になり、チームに黒星(借金)を付けてしまう事が多かったため、メディアなどから「借金王」「見殺し王子」などと揶揄される事もあった。

2008年

前シーズンとは異なり、専ら先発としてシーズンを通し、ローテーション投手を務めた。開幕直後こそ調整不足で出遅れたが、前年とは打って変わって援護にも恵まれ、勝ち星を量産。約2ヶ月勝ち星に見放されている時期もあったが、シーズン終了時には12勝を挙げ、自身初のタイトルである最優秀勝率投手を受賞、チーム最多勝で見事に昨年のリベンジを果たした(奇しくも前年と勝ち星と負け星の数が逆転し、12勝3敗だった)。序盤での炎上、背信投球もほとんどなく、防御率も2.99と自己最高成績である。しかし、味方援護の直後に打たれるシーンが多数見られ、勝利の日でもスポーツ新聞記事には「反省だらけです」などというコメントが散見された。この年オールスターに初出場。オフの契約更改では年俸1億円の3年契約(総額3億円)の大型契約を結んだ。

  • 高校時代には松坂と対戦し、インタビューを受けた際には、「(向こうはそう思わないだろうが)ライバルは松坂投手」と口にしている。しかし2006年の交流戦でも松坂と対戦する事はなく、同年一杯で松坂がメジャーリーグに移籍した為、プロ入り後の対戦は2008年現在叶っていない。
  • 大学の同期である村田修一とは悪友関係にあり、初の顔合わせで喧嘩になった・深夜に村田に叩き起こされうどんを作らされた・学食のからあげを村田に横取りされ、清算時にからあげ代を徴収した・講義をサボった村田が館山の携帯にワン切りしまくった等、様々なエピソードがある。
  • 2005年に結婚を発表している。
  • 2007年オフの契約更改で、母方の祖父が作成したルーズリーフ約200ページに及ぶ、球団公式ホームページやスポーツ新聞の記事をパソコンで打ち直し、細かい試合経過や意見が添えられている「07年館山昌平データ」を持参し、3時間半に及ぶ交渉の結果、球団取締役から「前例がなく評価が難しかったが数字にはあらわれない部分が多かった」と評価され、当初の提示額より300万多い1600万アップ(推定年俸6200万)となった。
  • 普段は冷めた性格で、それが原因で村田修一との初顔合わせで喧嘩になった事もあるが実は温情家であり、2008年7月12日の中日戦で7回無失点と好投し約1ヶ月振りの勝利投手権を手にするが、8回からリリーフした押本健彦が4連投の影響もあり中日打線に連打を許し1失点し館山の勝利投手権を消してしまうが、その後ベンチに戻り頭を下げた押本に対して、館山は笑顔で迎え肩を叩いたというエピソードがある。
  • 2009年千葉県館山市の「スポーツ大使」に就任した。同じ名前であることからオファーを受けて快諾した。[2]











































W
H
I
P
2003 ヤクルト 10 9 0 0 0 0 3 0 -- .000 208 50.1 51 11 10 1 3 37 0 0 29 29 5.19 6.62 1.21
2005 25 25 1 1 1 10 6 0 0 .625 622 150.1 151 14 28 4 4 105 1 0 70 66 3.95 6.29 1.19
2006 44 6 0 0 0 2 5 5 16 .286 359 79.2 98 7 21 6 8 61 2 0 41 35 3.95 6.89 1.49
2007 45 15 2 0 0 3 12 5 5 .200 558 127.2 129 14 39 6 10 115 5 0 57 45 3.17 8.11 1.32
2008 24 24 0 0 0 12 3 0 0 .800 628 153.1 137 13 31 1 7 99 5 0 54 51 2.99 5.81 1.10
通算:5年 148 79 3 1 1 27 29 10 21 .482 2375 561.1 566 59 129 18 32 417 13 0 251 226 3.62 6.69 1.24
  • 2008年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

  1. ^ ヤクルト館山が3年3億円で契約更改/主要ニュース速報/デイリースポーツonline
  2. ^ 館山 館山市の大使に/スポニチ Sponichi Annex ニュース

ヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)
2002年ドラフト指名選手
1巡目:高井雄平 / 3巡目:館山昌平 / 4巡目:泉正義 / 5巡目:大原秉秀 / 6巡目:片山文男 / 7巡目:高橋敏郎
8巡目:吉川昌宏 / 9巡目:小森孝憲 / 10巡目:久保田智 / 11巡目:大塚淳

2009年01月25日現在